大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所 昭和62年(ワ)1039号 判決

原告

松本寿賀子

右訴訟代理人弁護士

井上二郎

竹岡富美男

被告

内外ゴム株式会社

右代表者代表取締役

岡崎藤雄

右訴訟代理人弁護士

松村文二郎

主文

一  被告は、原告に対し、金一六四九万三八三一円及びこれに対する昭和六二年七月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その一を原告の、その四を被告の、各負担とする。

四  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金二〇九九万三八三一円及びこれに対する昭和六二年七月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (当事者)

(一) 被告は、自動車用チューブ、履物等各種ゴム製品、化成品等の製造・販売等を目的とする株式会社である(以下、「被告会社」という。)。

(二) 原告は、昭和五年四月一五日生まれの女性で、昭和四〇年被告会社に作業員として採用され、当初約五年間は履物材料切断等の作業に従事していたが、後述のとおり、昭和四五年から昭和五二年末までの大部分の期間、トルエン、ヘキサン等の有機溶剤を含有するゴム糊を使用する作業に従事していたものである。

2  (原告が従事した作業の内容と有機溶剤に対する曝露状況)

(一) 原告は、昭和四五年から昭和四八年四月まで被告会社ガス膜課に配属され、一日における作業時間のうち、約六時間はガスメーター用膜(以下「ガス膜」という。)の切り離し作業(以下「本件ガス膜切り離し作業」という。)に、約三時間はガス膜への糊塗り作業(以下「本件ガス膜糊塗り作業」という。)にそれぞれ従事していた。

(1) 本件ガス膜切り離し作業は、別紙図面Aに示すとおりで、テトロン布に有機溶剤であるトルエン、メチルエチルケトンを含有するゴム糊(以下「本件ガス膜用ゴム糊」という。)を塗ったガス膜を赤外線乾燥機の中で乾燥させ、その後、右乾燥機から出てくるガス膜を一五センチメートルないし三〇センチメートル角の切れ目に合わせて、一枚ずつ手で切り離す作業であって、右乾燥機と原告の作業場所とは約一メートル五〇センチしか離れておらず(作業によっては、乾燥機のすぐ近くで作業することもあった。)、しかも、乾燥機から出てきたガス膜は、本件ガス膜用ゴム糊が半乾きの状態であったから、本件ガス膜切り離し作業中、赤外線乾燥機とガス膜から生ずる有機溶剤の強い臭気が、常に原告の目や鼻を刺激していた。

(2) 本件ガス膜糊塗り作業は、別紙図面Bに示すとおりで、作業者がベルトコンベアの前に座り、左手でガス膜(一枚は一五センチメートルないし三〇センチメートル角)を目の前に三センチメートル間隔で並べ、これに、右手の刷毛で、作業者の手元に置かれた直径約二〇センチメートルの缶(以下「小出し缶」という。)内の本件ガス膜用ゴム糊を塗布する作業である。

右作業においては、ガス膜が作業者の目の前に置かれているため、ガス膜の塗布面と作業者の頭部の距離は約四〇センチメートルないし五〇センチメートルしかなく、右小出し缶には蓋がなされておらず、作業者の後方約一メートルの位置には、本件ガス膜用ゴム糊の入った直径約三〇センチメートル・高さ約五〇センチメートルの元缶が置かれていて、一日五回ないし六回は、作業者の手によって、右ゴム糊が元缶から小出し缶に移し替えられるのが常態であり、また、本件ガス膜切り離し作業と同様に、ゴム糊を塗ったガス膜をベルトコンベアを挟むように設置された赤外線乾燥機に通して半乾きにするため、本件ガス膜用ゴム糊に含まれる有機溶剤の蒸気が発生していた。

原告は、このように、本件ガス膜糊塗り作業中、ガス膜の塗布面、本件ガス膜用ゴム糊の入った小出し缶及び元缶、乾燥機から発生する有機溶剤の強い臭気や刺激の中で作業することを余儀なくされていた。

(3) 右(1)(2)の作業は、当初面積が約六〇平方メートル(約六メートル×一〇メートル)・高さ約五メートルの作業場で行なわれていたところ、途中から約二倍ないし三倍の広さの作業場に移転したが、いずれの作業場にも二台の乾燥機が設置され、とりわけ本件ガス膜糊塗り作業の作業場においては、乾燥機による加熱のため、冬でも半袖作業着で作業ができる程温度が高く、かかる高温のため、本件ガス膜用ゴム糊に含まれる有機溶剤の気化も早く、右作業場には常に有機溶剤の臭気がたち込めていた。ところが、いずれの作業場においても、局所排気装置は、本件ガス膜切り離し作業の赤外線乾燥機上部に換気扇が設けられていただけであり、しかも、右換気扇は十分に作動せず、甚だ換気に不十分であったため、原告の周辺には常に有機溶剤の臭気や刺激が充満していた。

(二) 原告は、昭和四八年四月から昭和五二年一二月まで被告会社自動車チューブ課に配属され、終日、自動車用タイヤのチューブバルブの糊塗り作業(以下「本件チューブ糊塗り作業」という。)に従事した。

(1) 本件チューブ糊塗り作業は、別紙図面Cに示すとおりで、作業者の前のベルトコンベア上を流れる自動車用チューブバルブ(以下「チューブ」という。)に、作業者の左上前方に設置されたゴム糊噴射装置により、ゴム分のほか有機溶剤であるノルマルヘキサン、トルオール等の成分から成るゴム糊(以下「本件チューブ用ゴム糊」という。)を吹き付ける作業であるが、作業者は、目の前に設置された鉄製遮蔽板の隙間(約二〇センチメートル幅)から、ゴム糊噴射装置により既に糊付けのすんだチューブがベルトコンベア上を流れてくるのを左手で取り上げ、その後、右手で糊付け前のチューブをベルトコンベア上に乗せていくものである。

(2) 右作業においては、作業者が常に前傾姿勢で作業をするため、ゴム糊噴射装置と作業者の作業位置との間隔が、約五〇センチメートルないし六〇センチメートルの距離しか離れておらず、しかも、右噴射装置による本件チューブ用ゴム糊の噴射は、少なくとも一時間に三〇〇回、右ゴム糊(そのうち、ノルマルヘキサンの含有量は六割を超える。)の量は、一日約三〇キログラムにも及び、噴射の状態によっては、本件チューブ用ゴム糊の飛沫が、前記遮蔽板の隙間から作業者の顔面に直接かかってくることがあった。また、右ゴム糊を吹き付けられたチューブは、赤外線乾燥機を通してこれを乾燥させるため、ガス膜課での作業と同様、加熱によって本件チューブ用ゴム糊中の有機溶剤が蒸発し、あたりに臭気と刺激が立ち込める状況にあったばかりでなく、ベルトコンベア上のチューブとゴム糊噴射装置が離れているため、ベルトコンベア上には飛び散った本件チューブ用ゴム糊が堆積している状況にあった。さらに、作業者は、一日に約二〇分程度、ゴム糊噴射装置に供給する本件チューブ用ゴム糊を溜めておくタンクに、家庭用柄杓で右ゴム糊を移す作業をしていた。

原告は、このように、本件チューブ糊塗り作業中においても、本件チューブ用ゴム糊に含有された有機溶剤の強い臭気や刺激の中で就労を余儀なくされていた。

(3) 右作業は、当初の一年間は比較的天井の高い作業場で行なわれたが、昭和四九年からは面積約六四平方メートル・高さ約三メートルの狭い作業場に移り、しかも、局所排気装置は一切設けられておらず、いくつか設置されていた換気扇も、本件チューブ用ゴム糊にじかに接しながら作業に従事していた原告らにとっては、全く用をなさなかった。

(三) 以上のとおり、原告は、昭和四五年から昭和五二年一二月までの約八年間、有機溶剤により高度に汚染された作業場において就労し、高濃度有機溶剤の曝露を受けたものである。

3  (原告の本件有機溶剤による中毒罹患)

(一) (有機溶剤による中毒)

(1) 本件各作業の現場で使用されていたゴム糊に含有される有機溶剤は、トルエン、メチルエチルケトン、ノルマルヘキサン、トルオール等であるところ、これらの有機溶剤は、脂溶性をその特徴とする。右有機溶剤が人間の体内に摂取されると、人間の神経が脂肪でできていることもあって神経系に蓄積しやすく、したがって、神経障害を生じやすいと理解されている。右有機溶剤の体内残留量は、曝露を受ける個体によって差があるが、一般に、女性の体内の方が、皮下脂肪量の差によって、男性の体内よりも高いとされ、また、体内への「侵入」は、経口のみならず、皮ふからの吸収もあり得るとされている。

(2) 有機溶剤の身体への影響は、すべての溶剤について十分研究がなされているとは言い難いが、ノルマルヘキサンについては、皮ふから吸収されて神経繊維を害し、多発性神経炎を起こしやすいことが報告されている。また、有機溶剤に長時間曝露されることによる健康への影響については、有機溶剤の種類によって異なり、中枢神経系、自律神経系、末梢神経系、造血系、肝臓その他の障害と多岐に亘るが、前述のとおり、有機溶剤が脂溶性であることから、程度の差こそあれ、中枢神経系、自律神経系に障害をもたらし、頭痛、めまい、視力低下などの中枢神経障害のほかに、不安、短気、不眠、無気力などの精神神経症状、自律神経障害としては、立ちくらみ、発汗、冷え症、悪心、心窩部痛、食欲不振などの自覚症状が現われる。さらに、混合溶剤曝露の場合の自覚症状としては、手や顔などの皮ふ障害、協同運動失調などが報告されている。

(二) (原告の有機溶剤中毒罹患の経過と労災認定)

(1) 原告は、前記2に記載のとおり、ガス膜課における本件ガス膜糊塗り作業を始めて半年位経った昭和四六年ころから、吐き気、頭痛、眼の刺激痛、皮ふの異和感、全身の皮ふ乾燥(皮ふが白い粉を吹いたようにカサカサになる)などの症状に悩まされるようになり、以後さらに、咳、のどの痛み、食欲不振、ふらつき等の症状が加わるようになった。同人のこれらの症状は改善されることなく、同人は、当時健康診断に当った医師に右各症状を訴えたが、取り合ってもらえなかった。原告は、同人の右各症状が有機溶剤中毒のそれであることを知る由もなく、ただ同一作業に従事することにたまりかねて被告会社に配転を希望し、その結果、昭和四八年四月、自動車チューブ課に配属された。

(2) しかしながら、自動車チューブ課における本件チューブ糊塗り作業は、作業自体はガス膜課におけるそれと比較して軽作業ではあったものの、有機溶剤に対する曝露はいっそうひどいものであった。そのため、原告の、前記症状はますます悪化し、手足のふるえ、脱力感、頭髪の抜け等に加えて、声が出にくい、めまい等の各症状も現われた。原告は、このように各症状が悪化拡大するに及び昭和五一年五月から、別紙受診歴一覧表記載のとおりの診療を受け、昭和五四年八月、末梢神経障害が診断されるに至った。

(3) そこで、原告は、本件障害に関し、昭和五六年二月、高砂労働基準監督署長に対し、労災給付を請求したところ、同監督署長は、昭和五八年三月三一日、不支給決定をなしたが、原告はこれを不服として審査請求をなしたところ、兵庫県労働者災害補償保険審査官は、昭和六一年一一月七日、本件疾病は被告の業務に起因する有機溶剤中毒によるものである旨認定し、右不支給決定の取消決定をした。

(4) 以上のとおり、原告の前記症状は、原告がこれまで従事した作業の内容と有機溶剤に対する曝露状況及び右症状発現の経過に照らし、兵庫県労働者災害補償保険審査官の昭和六一年一一月七日付本件不支給決定の取消決定認定のとおり、明らかに本件ガス膜切り離し作業、本件ガス膜糊塗り作業及び本件チューブ糊塗り作業に起因する有機溶剤中毒によるものである。

4  (被告会社の責任原因(安全配慮義務違反))

(一) 被告会社は、原告の使用者として従業員たる原告に対し、同人が遂行する職務の管理等に当たって、その生命身体を危険・疾病等から保護するよう配慮すべき安全配慮義務を負い、かかる義務内容の最低基準は、労働安全衛生法、労働安全衛生規則、有機溶剤中毒予防規則(以下それぞれ「労安法」、「労安規則」、「有機規則」と略称する。)(なお、本件作業で使用されていた有機溶剤は、いわゆる第二種有機溶剤と呼ばれ、それを使用した塗布ないし接着の作業は、有機規則にいう有機溶剤業務に該当する。)によって具体化されているところ、原告が従事した前述の如き作業内容及びその作業環境に照らし、被告会社の尽すべき安全配慮義務の内容とその違反態様は、次のとおりである。

(二)(1) 被告会社は、屋内作業場等において、第二種有機溶剤業務に原告を従事させていたのであるから、当該有機溶剤業務を行なう作業場所に、有機溶剤の蒸気の発生源を密閉する設備または局所排気装置―ただし、右局所排気装置の性能については、「有機溶剤の蒸気の発散源ごとに設けられていること」(有機規則一四条一項一号)、「局所排気装置の換気口を直接外気に向かって開放しなければならない」(同規則一五条の二第一項)と定められている―を設置し、もって、作業者の有機溶剤曝露を最小限にするよう作業場の換気を完全にすべき義務を負っていた(労安法二二条、二三条、有機規則五条)。

しかるに、被告会社は、(イ)本件ガス膜切り離し作業において、局所排気装置を乾燥機上部に取り付けていただけで、乾燥機から半乾きの状態で出てきたガス膜を切り離す場所には、排気装置を全く設置せず、(ロ)本件ガス膜糊塗り作業現場にも局所排気装置を設置せず、(ハ)本件チューブ糊塗り作業においても、同作業所内の自動塗装機、糊塗り作業いずれの作業箇所にも局所排気装置を設置しなかった。

(2) 被告会社は、右(1)のとおり、本件作業に際し有機溶剤曝露を最小限にするための局所排気装置を設置していなかったのであるから、右作業に従事する原告が有機溶剤ガスを吸引したり同人に皮ふ障害が発生したりすることを防止するため、防毒マスク等の呼吸用保護具・保護手袋等の適切な保護具を備えるべき義務を負っていた(労安規則五九三条、五九四条、有機規則三二条、三三条)にもかかわらず、かかる保護具を備えていなかった。

(3) 被告会社は、屋内作業場において有機溶剤業務に原告を従事させていたのであるから、有機溶剤の人体に及ぼす作用、取り扱い上の注意事項、中毒が発生したときの応急措置を、作業中の原告を含む労働者が容易に知ることができるよう掲示し、またこれについて、原告を含む労働者に対し安全衛生教育を行うべき義務を負っていた(労安法五九条、労安規則三五条、有機規則二四条、二五条)にもかかわらず、かかる掲示、安全衛生教育を行なわなかった。

(4) 被告会社は、トルエン、ノルマルヘキサン等の有機溶剤を扱う業務について、六か月以内毎に一回、定期に当該有機溶剤の濃度を測定(なお、右測定地点は、有機溶剤への曝露状況を確認するために適当な位置で行う必要があり、それには労働者が立ち入り、かつ作業場所について垂直方向及び水平方向にそれぞれ三点以上行わなければならない。)し、さらに、右測定に基づく結果の評価を行ない、それに基づいて作業方法の改善、その他作業環境を改善するための必要な措置を講ずべき義務を負っていた(労安法六五条、同施行令二一条、有機規則二八条)。

それにもかかわらず、被告会社は、昭和五〇年まで作業場の環境測定をしていないし、それ以後も右所定の基準による環境測定を行なわなかった。

(5) 有害業務については、特別の項目について健康診断が義務づけられており(労安法六六条、同施行令二二条)、有機規則では、視力低下、知覚異常、膝蓋腿反射異常、握力減退、皮ふ・粘膜の異常の確認が不可欠であるところ(同規則二九条、三〇条)、被告会社における特殊健康診断においては、チューブ押出有機溶剤等健康診断個人票が作成されているものの、症状の訴えを一定の自覚症状調査法を用いて問診しておらず、したがって、自覚症状の訴えが全く無視されて右健康診断個人票に記載されていないばかりでなく、末梢神経に関する神経学的診察も行なわれないなど、被告会社の本件作業現場における特殊健康診断の方法が極めて不適切であった。

(6) さらに、被告会社は、本件作業が有害作業であるにもかかわらず、作業場所場外に休憩設備を設けていなかった(労安規則六一四条)。

(7) 以上のとおり、被告会社は、本件有機溶剤業務に従事する原告に対し、その就業以来永年に亘って何ら右(1)ないし(6)で述べた必要な措置を講ずることなく、右いずれの安全配慮義務も全く履行しなかった。

(三) 原告の本件有機溶剤中毒罹患は、右主張から明らかなとおり、被告会社の原告に対する本件労働契約に基づく本件安全配慮義務違反に起因する。

よって、被告会社には、民法四一五条に則り、原告の被った後記損害を賠償すべき責任がある。

5  (原告の損害)

(一) 休業損害 金六九九万三八三一円

(1) 原告の、本件発病以来の治療状況は、別紙受診歴一覧表記載のとおり、昭和五三年一月九日から昭和五五年六月二七日まで入院(延べ七六九日)、昭和五五年七月一二日から平成元年一二月一五日まで通院(三四四四日間うち治療実日数は、玉木整形外科、兵庫医療生活協同組合神戸診療所及び田口鍼灸診療所だけをみても合計一四九五日)である。

(2) そのため、原告は、右治療開始後の昭和五三年八月四日から休業を余儀なくされ、以来平成元年一二月一五日までの三七八七日間就労することができなかった。そして、現在もなお就労不能であり、休業中である。

(3) そこで、原告に対する労災保険の休業補償給付の「給付基礎日額」は金四六一七円であるから、これを原告の賃金日額とみなして、右三七八七日分の休業損害を算定すると、金一七四八万円四五七九円となる。

4617円×3787=1748万4579円

(4) 休業損害の一部填補

原告は、本件疾病につき、労災保険の休業補償給付を受けており、その休業補償給付の日額は「給付基礎日額」の六〇パーセント相当額とされているから、平成元年一二月一五日までの前記三七八七日分の休業損害一七四八万四五七九円のうちその六〇パーセント相当額が休業補償給付により填補されているとみなしてこれを控除すると、原告の休業損害の残額は次のとおり金六九九万円三八三一円となる。

1748万4579円×(1−0.6)=699万3831円

(5) なお、原告の前記「給付基礎日額」は、原告の休業前の賃金を基礎として算定されたものであるところ、その後の一般の賃金の上昇を考慮すると低額に過ぎるものであり、逐年毎に然るべき昇給による増額がなされるべきである。

しかし、原告において右昇給分を具体的に算定することは困難である故、原告の本件休業損害を算定するに当っては、右昇格を考慮せず、前記のとおり「給付日額」に固定して算定し、これに合わせて、休業補償給付による填補額の算定に当っても労災保険の休業補償給付につき適用されるスライド率を考慮しなかったものである。

(二) 慰謝料 金一〇〇〇万円

原告は、本件疾病の発症以来、その症状に苦しみ、入院・通院を余儀無くされるなど著しい肉体的・精神的苦痛を受けたことによる、平成元年一二月一五日までの慰謝料として(一部請求)、金一〇〇〇万円を請求するものであるところ、右慰謝料額の算定に当って斟酌すべき事情は、以下のとおりである。

(1) 原告の入・通院状況は、前述のとおりであり、原告は、神戸大学医学部附属病院退院後ここ一〇年間は、実に二・三日に一度は通院を強いられており、さらにその間、京都南病院に何度か入退院をしている。

(2) 原告の病症状は、昭和五二年ころから変化がなく、現在に至っているが、未だ完治せず、現在も極めて強度の四肢のしびれ、疼痛が残っているほか、脱力、ふらつき、悪寒、戦りつ発作、頭痛等の自覚症状があり、他覚所見としても末梢神経障害、脳波異常、口周囲の知覚鈍麻、運動失調等が認められている。

(3) そして、前記症状のため、(イ)杖を使ってしか歩けないし、杖を使っても休憩せずに五〇メートル歩くのは無理である、(ロ)衣服の着脱が時間をかけなければできない、(ハ)箸を使ったり、茶碗をもったりするのにも、ときたま支障がある、(ニ)視力が落ち、夕暮れになると一〜二メートル先が見えず、ぶつかることがあるし、視野が狭くなったので、キョロキョロして歩かなければならない、(ホ)温度の感覚が鈍くなっており、火を使ったり、お湯を触るのが恐い、(ヘ)布団の上げ下ろし、食事の支度等も困難である、(ト)ものを考えると疲れるため、書類等を読むのが困難であるし、物忘れも激しい等日常生活に多大な支障がある。

(4) また、原告のかかる日常生活の支障のため、同人は、家族に多大な負担をかけ、平均二・三日に一回という通院時には支援者に付き添って貰う等周囲の人々にも援助を受け、それが原告の精神的負担ともなっている。

(5) 以上の各事情を斟酌すると、平成元年一二月一五までの原告の精神的損害に対する慰謝料額は、金一〇〇〇万円を下らないというべきである。

(三) 弁護士費用 金四〇〇万円

原告は、本件訴訟の提起・追行を弁護士である原告訴訟代理人らに委任したものであるところ、被告会社の本件安全配慮義務違反と相当因果関係のある右弁護士費用としては、金四〇〇万円が相当である。

(四) 以上(一)ないし(三)の合計は、金二〇九九万円三八三一円となる。

6  よって、原告は、被告会社に対し、本件債務不履行による損害賠償請求権に基づき、本件疾病により原告が被った損害のうち、後遺障害による逸失利益及び平成元年一二月一六日以降の諸損害を除いた一部請求として、前記金二〇九九万円三八三一円及びこれに対する履行期到来後で、かつ、本訴状送達日の翌日である昭和六二年七月二八日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する答弁

1  請求原因1(一)及び(二)の各事実はいずれも認める。

2(一)(1) 同2(一)の冒頭事実のうち、原告が昭和四五年から昭和四八年まで被告会社ガス膜課に配属され、本件ガス膜切り離し作業及び本件ガス膜糊塗り作業に従事していたこと、一日の作業時間のうち、本件ガス膜糊塗り作業の作業時間が約三時間であったことは認めるが、その余の事実は争う。本件ガス膜切り離し作業の作業時間は約四時間であり、作業時間は合計しても七時間(当時の就業規則所定の実働作業時間)であり、残業があってもせいぜい八時間程度であった。

(2) 同2(一)(1)の事実のうち、本件ガス膜切り離し作業が、別紙図面Aに示すとおりで(ただし、説明部分のうち、「長さ約二センチメートルの黒い生のりを付着させたもの」とあるのを除く。)、ガス膜を赤外線乾燥機の中で乾燥させ、その後、乾燥機から出てくるガス膜を切れ目に合わせて一枚ずつ手で切り離す作業であることは認めるが、その余の事実は争う。

ガス膜は、テトロンの布を芯にして、その上下面にゴム(溶剤に関係のない普通のゴム)をあて、これをカレンダーロールで物理的に圧着し(溶剤その他接着剤は一切使わない)たゴム引布であって、乾燥機を通すのはこれを収縮させるためである。また、このようにして布にゴム引きしたものに、その後で有機溶剤を含む糊引きをするが、それは二メートル幅毎の接合部の二センチメートル幅の部分だけであり、他の部分にはゴム糊を塗っておらず、有機溶剤とは全く無関係である。したがって、使用ゴム糊の量は非常に少ないうえ、ガス膜は乾燥機から乾いた状態で出てくるので、これから発する臭気刺激は全くない。

(3) 同2(一)(2)の事実のうち、本件ガス膜糊塗り作業が別紙図面Bに示すとおりであり、ベルトコンベアの前に座り、左手でガス膜を目の前に三センチメートル間隔で並べ、これに、右手の刷毛で、作業者の手元に置かれた小出し缶内の本件ガス膜用ゴム糊を塗布する作業であること、右作業においては、ガス膜が作業者の目前に置かれているため、ガス膜の塗布面と作業者の頭部の距離は約四〇センチメートルないし五〇センチメートルしかなかったこと、作業者の後方約一メートルの位置には本件ガス膜用ゴム糊の入った元缶が置かれていたこと、右作業においても、本件ガス膜用ゴム糊を塗ったガス膜を赤外線乾燥機に通すことは認めるが、その余の事実は争う。

赤外線乾燥機にはダクトが取り付けられ、臭気を上部から屋外に抜いていたから、臭気は弱かったし、元缶には蓋がしてあったから、臭気を発しない。

また、後記(3)に記載の如き作業環境であったので、作業者がそれ程強い臭気や刺激を受ける状態ではなく、臭気がある程度は漂っていたことは事実であるが、それはゴム糊作業の周辺だけで、室内全体には充満していなかった。

(4) 同2(一)(3)の事実のうち、いずれの作業場にも乾燥機が二台設置されていたことは認めるが、その余の事実は争う。

本件ガス膜切り離し作業の作業場は、別紙(2)の図面に記載のとおり、面積は554.7平方メートル、高さは作業場両端の最低四メートルから中心に向い漸次高くなり最高は七メートルで、同作業場の各乾燥機には排気用のダクトが設けられていたほか、多数の換気扇、窓が設置されていて、作業場の換気は良好な状態にあり、しかも、前述のとおり、原告は全くといってよいほど有機溶剤の臭気、刺激を受けていなかった。

また、本件ガス膜糊塗り作業の作業場も、別紙(3)の図面に記載のとおり、広く(縦九メートル・横二一メートル・高さ5.5メートル)、他に加硫場や検査場もあり、同作業場には、(イ)手塗り作業の場所を含め、ファンが五か所に取り付けられており、そのうち四か所は天井に抜けるファンで、乾燥機にも天井に抜けるファンが付いていたものであり、(ロ)さらに、窓(横1.2メートルないし1.6メートル・高さ1.8メートル)が六か所に、入口(横1.2メートルないし1.8メートル・高さ1.8メートル)が五か所にそれぞれ設置されていて、換気が十分図られていたうえ、乾燥機の上は金属板で蔽われ、熱気を防いでいたので、同作業場内の温度が異常に上昇することはなかった。このように、本件ガス膜糊塗り作業においても、換気装置その他の室内の作業環境に相当の配慮がなされていたから、原告は、決して有機溶剤中毒を起すような激しい臭気や刺激にさらされていなかった。

(二)(1) 同2(二)の冒頭事実のうち、原告が、昭和四八年四月から昭和五二年一二月まで被告会社自動車チューブ課に配属され、本件チューブ糊塗り作業に従事したことは認めるが、その余の事実は争う。

右チューブ糊塗り作業における所定の実働作業時間は、昭和四九年以前は七時間、昭和五〇年一一月から昭和五一年四月まで七時間一〇分、その後は七時間二〇分で、そのうち右チューブ糊塗り作業以外にバルブ運搬、櫛板運搬、ロット番号付、掃除等の作業時間一時間が含まれていた。

(2) 同2(二)(1)の事実のうち、本件チューブ糊塗り作業が、作業者の前のベルトコンベア上を流れるチューブに、作業者の左上前方に設置されたゴム糊噴射装置により、本件チューブ用ゴム糊を吹きつける作業であること、作業者の前に遮蔽板が置かれていること、同作業において、作業者が、ゴム糊噴射装置により既に糊付けの済んだチューブがベルトコンベア上を流れてくるのを左手で取り上げ、その後に、右手で糊付け前のチューブをベルトコンベア上に乗せていくことは認めるが、その余の事実は争う。

右遮蔽板は、前記乾燥機とほぼ同じ高さのもので、作業者とゴム糊噴射装置との中間に設置され、その両側の下方にベルトコンベア上のチューブが通過する穴があいていたが、二〇センチ幅の隙間はなかった。

(3) 同2(二)(2)の事実のうち、本件チューブ糊塗り作業が常に前傾姿勢であること、作業者が、一日に約二〇分程度、ゴム糊噴射装置に供給する本件チューブ用ゴム糊を溜めておくタンクに、家庭用柄杓で右ゴム糊を移す作業をしていたことは認めるが、その余の事実は争う。

ゴム糊噴射装置による噴射の方向は真横向きであり、また、右噴射装置と作業者との距離は、作業者と前記遮蔽板との間が五〇センチメートルないし六〇センチメートル、さらに、右遮蔽板と右噴射装置間が五〇センチメートルないし六〇センチメートルあり、これを合わせると一メートルないし1.2メートルとなり、さらに、前記乾燥機と作業者との距離は1.5メートル位あったから、かかる位置関係や右遮蔽板の設置から明らかなように、ゴム糊噴射装置からの噴射により、本件チューブ用ゴム糊が作業者の顔にかかるようなことはあり得ないし、粘りのあるゴム糊が飛沫になって散ることもあり得ない。なお、ベルトコンベア上には、噴射による本件チューブ用ゴム糊が少しずつ堆積していたが、これは時々清掃していた。

(4) 同2(二)(3)の事実のうち、本件チューブ糊塗り作業が、当初の一年間比較的天井の高い作業場で行われたことは認めるが、その余の事実は争う。

昭和四九年から、右作業場は、別紙(4)の図面に記載のとおり、面積85.28平方メートル・高さ四メートルの建物となり、右作業場には窓(横・高さとも1.8メートル)が八か所と入口(横1.8メートル・高さ2.1メートル)が一か所それぞれ設けられていて、窓には換気扇が二か所に取り付けられ、さらに、本件チューブ糊塗り作業場のすぐ前には、工業用ファン(動力を使用した三層の強力なもの)が取り付けてあった。

以上のとおり、被告会社は、本件チューブ糊塗り作業においても、遮蔽板や多数の窓、換気扇、工業用ファンの設置等により、極力原告ら作業員を有機溶剤の臭気・刺激から防禦する措置をとっていた。したがって、原告が有機溶剤中毒の原因となる激しい臭気や刺激にさらされていた事実はない。

また、本件チューブ糊塗り作業の作業場における環境測定結果(昭和五一年及び昭和五二年実施)によると、測定点の数からみて正確とはいえないにしても、有機溶剤曝露の許容限度を超えてはいない。

(三) 同2(三)の事実は争う。

3(一)(1) 同3(一)(1)の事実のうち、本件各作業現場で使用されていたゴム糊に含有される有機溶剤が、トルエン、メチルエチルケトン、ノルマルヘキサン、トルオール等であることは認めるが、その余の事実は争う。

(2) 同3(一)(2)の事実のうち、人体が有機溶剤に長時間曝露されると、それにより、当該人体の中枢神経系、末梢神経系等に障害が発生すること、その一般的症状として、疲労しやすい、記憶力・注意力低下、食欲不振、吐気、不眠、運動失調、知覚障害、歩行・起立障害等があるとされていることは認めるが、その余の事実は争う。

(二)(1) 同3(二)(1)の事実のうち、原告が、昭和四八年四月、自動車チューブ課に配属されたことは認めるが、その余の事実は争う。

(2) 同3(二)(2)の事実のうち、自動車チューブ課における本件チューブ糊塗り作業が、その作業自体としてはガス膜課における作業と比較して軽作業であったこと、原告が、同人において診療を受けたと主張する別紙受診歴一覧表記載のうち、同人が次の各医療機関において診療を受けたことは認めるが、その余の事実は争う。

倉敷中央病院 五三・一・八 腰椎骨及び頸椎骨軟骨症 休業

森下内科 五四・五・九 心脱神経症 休業

国立明石病院 五四・八・四 変形性頸椎症 休業

神戸大学医学部附属病院 五五・一二・一七 末梢神経障害 休業

玉木整形外科 五六・七・一 変形性頸椎症、両変形性膝関節症、右肩関節周囲炎、肩関節拘縮 休業

(3) 同3(二)(3)の事実のうち、労災保険に関する事実は認めるが、その余の事実は争う。

原告の本件疾病は、後述のとおり、被告会社の業務に起因するものではない。

4(一)  同4(一)の事実は争う。

(二)(1)  同4(二)(1)の事実は争う。

被告会社には本件作業場の換気を完全に行う義務はなく、局所排気装置の設置をもって足りるところ、本件各乾燥機には前記のとおり排気用のダクト装置が設置されていた。

(2) 同4(二)(2)の事実のうち、被告会社が本件作業場に防毒マスクを備えていなかったことは認めるが、その余の事実は争う。ただし、被告会社は原告を含む作業員に対し普通のマスクと手袋を支給していた。

(3) 同4(二)(3)の事実は争う。被告会社は、有機溶剤取扱の注意事項を本件作業場に掲示するとともに、右作業場所属班長等から各作業員に対しマンツーマンの教育を行っていた。

(4) 同4(二)(4)の事実は争う。被告会社は、昭和五〇年以前においても本件作業場の環境測定を実施していた。

(5) 同4(二)(5)の事実は争う。被告会社における健康診断に際し、原告本人から医師に対し自覚症状の訴えがなかったから、特に神経系の診断を行わなかったにすぎない。

(6) 同4(二)(6)の事実は争う。本件作業場外には、休憩設備五か所が設けられていた。

(7) 同4(二)(7)の事実は争う。

(三)  同4(三)の主張は争う。

5  同5の損害の主張は争う。

三  被告会社の主張

1  原告の本件疾病は、有機溶剤中毒によるものではなく、業務起因性がない。その理由は、以下のとおりである。

(一) 先ず、本件ガス膜切り離し作業、本件ガス膜糊塗り作業及び本件チューブ糊塗り作業の各作業場におけるダクト、換気扇、窓、遮蔽板等の施設、中毒予防の施設、原告の右各作業場における作業と有機溶剤に対する被曝露状況については、前述のとおりであって、右各作業の作業環境は良好であり、同人の右各作業場における有機溶剤の被曝露濃度は、決して高くなかった。

(二) 原告が、有機溶剤取扱業務(以下「本件業務」という。)に従事中の昭和四五年二月から昭和五二年一二月末まで、及び、本件業務離脱後である昭和五三年一月六日以降において診断を受けた各医療機関の診断名、症状及び疾病と有機溶剤との関係についての各医師の見解は、別紙(1)記載のとおりであって、実際に原告の診断をした多数の医師の診断結果によれば、原告の疾病と有機溶剤中毒との関連については、ほとんどが「確証なし」または「不明」とされている。とりわけ、本件業務従事中及び業務を離脱してから六か月未満の間(昭和四五年二月から昭和五三年六月までの間)における各医療機関の診断のうち、原告の症状を末梢神経障害とするもの及び業務と関連ある症状とするものは一件もない。

(三) 労働基準局通達による業務起因性の認定基準によれば、業務に従事中または業務離脱後六か月未満の間に末梢神経障害が発病することが認定の条件になっているが、原告は同期間中に発病していないし、原告と同一作業を行う労働者に、原告と同様の病状の発生をみたものは認められない。

(四) 原告がはじめて末梢神経障害と診断されたのは、昭和五五年神戸大学医学部附属病院(以下「神戸大病院」という。)においてであるところ、同病院で生検を行った大西医師の所見は、慢性期または軽症末梢神経障害の後遺状態に対応するものであり、有機溶剤の神経病によくみられる軸策腫脹はみられず、組織学的見地から原因を支持または暗示する所見は得られなかったというにあった。ただ、右生検に際しての診断名は、「有機溶剤による毒素性神経病」となっていたが、それは単に検査依頼時の疑い病名にすぎなかった。また、神戸大病院で原告を診察ないし検査した四名の医師の診断結果は、ともに有機溶剤との関連性については不明というにとどまり、病因を断定する意見を述べていない。

(五) さらに、末梢神経障害は、有機溶剤曝露によるだけでなく、整形外科的疾患、糖尿病等の原因も考えられるところ、原告はこれらの病状も併せもっていたものであり、また、同人は倉敷中央病院精神科で「明瞭なヒステリー」と診断されており、原告の自覚症状には心因的要因の影響が大きいと考えられる。

2  被告会社には、原告主張の如き安全配慮義務の不履行はなく、被告会社は、前述したとおり、作業場の排気等につき相当の安全配慮をしていた。すなわち、

(一) 本件ガス膜切り離し作業では、乾燥機自体に天井に抜けるファン付のダクトが設置されており、右作業における有機溶剤の使用は微量であり、それも完全に乾燥された後の切り離し作業であるから、右ダクトだけで排気は十分である。室内には、その他にファン一〇基あり、また換気口六か所、窓が一五か所あった。

(二) 本件ガス膜糊塗り作業では、乾燥機の上に天井に抜けるファンが設置されており、室内には、その他にファンが天井に二基、側壁に一基あり、また窓が六か所にあった。

(三) 本件チューブ糊塗り作業では、作業位置のすぐ近くに工業用の大型ファンが設置され、室内にはその他エアーポンプ一個、エアー攪拌機三個、ファン一個があり、また窓が八か所にあった。溶剤の元缶三個には蓋がされており、ゴム糊噴射装置には遮蔽装置が取付けられていた。

(四) 以上のとおり、本件各作業場には相当の安全配慮装置が取られており、法令規則上は不十分な点があったにせよ、実際は有機溶剤の曝露による中毒は十分に避けられるだけの装置ができていた。

3  (消滅時効の抗弁)

仮に、原告主張の本件損害に基づきその主張の損害賠償請求権が発生したとしても、右損害賠償請求権は、以下に述べるとおり、時効によりその大部分が消滅しているから、被告会社は、本訴において右消滅時効を援用する。

(一) 原告主張の損害は、労働契約に基づき原告の業務の遂行が継続して行われた結果、損害も継続して発生した(安全配慮義務が一回限りで、損害が継続的である場合とは異る。)というものであるから、かかる場合の損害賠償請求権の時効は、日々新たに発生する安全配慮義務につき、それぞれの時効の起算点から別個に消滅時効が進行すると解すべきであるところ、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、それが期限のない債務であることに鑑み、債務の履行を請求しうるときであって、損害の発生を知らなかったことは時効の進行を妨げないと解すべきである。

(二) そこで、これを本件についてみると、原告の本件業務従事期間は、昭和四五年二月一日から昭和五二年一二月二八日までであり、本訴状受付日は昭和六二年七月一四日であるから、原告主張の損害賠償請求権のうち、訴提起より一〇年以上前の昭和四五年二月一日から昭和五二年七月一四日までに発生した損害についての損害賠償請求権は、時効により消滅したというべきである。

(三) よって、仮に原告主張の本件損害賠償請求権が存在するとしても、昭和五二年七月一五日から同年一二月二八日(本件業務に従事した最終日)までの間に発生した損害に限定されるべきである。

四  被告会社の主張に対する原告の答弁

被告会社の前記三の主張はいずれも争う。

なお、安全配慮義務違反による損害賠償請求権の消滅時効の起算点については、被害者において自己が労働災害により何らかの疾病に罹患したことを認識しあるいは損害賠償請求が可能であることを認識した時点という意味で、当該疾病等につき行政上の決定を受けた日または弁護士から損害賠償債務について説明を受けたときと解するのが相当である。したがって、本件において、原告主張の本件損害賠償請求権につき、被告会社が主張するような消滅時効は完成していない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一当事者関係

被告会社が、自動車用チューブ、履物等各種ゴム製品、化成品等の製造・販売等を目的とする株式会社であること、原告が、昭和五年四月一五日生まれの女性で、昭和四〇年被告会社に作業員として採用され、当初約五年間は履物材料切断等の作業に従事していたが、昭和四五年から昭和五二年までの期間、トルエン、ヘキサン等の有機溶剤を含有するゴム糊を使用する作業に従事していたことは、当事者間に争いがない。

二原告が被告会社において従事した本件作業の内容と有機溶剤に対する曝露状況

1  ガス膜課における作業について

(一)  原告が、昭和四五年から昭和四八年まで被告会社のガス膜課に配属され、本件ガス膜切り離し作業及び本件ガス膜糊塗り作業に従事していたこと、一日の作業時間のうち、本件ガス膜糊塗り作業の作業時間が三時間であったこと、本件ガス膜切り離し作業が、別紙図面Aに示すとおりで(ただし、同図面の説明部分のうち、「長さ約二センチメートルの黒い生のりを付着させたもの」とあるのを除く。)、ガス膜を赤外線乾燥機の中で乾燥させ、その後、右乾燥機から送り出されてくるガス膜を切れ目に合わせて一枚ずつ手で切り離す作業であること、本件ガス膜糊塗り作業が別紙図面Bに示すとおりであり、作業者がベルトコンベアの前に座り、左手でガス膜を目の前に三センチメートル間隔で並べたうえ、これに、右手の刷毛で手元に置かれた小出し缶中の本件ガス膜用糊を塗布する作業であること、本件ガス膜糊塗り作業においては、ガス膜が作業者の目前に置かれているため、ガス膜の塗布面と作業者の頭部の距離は約四〇センチメートルないし五〇センチメートルしかなかったこと、作業者の後方約一メートルの位置には前記ゴム糊の入った元缶が置かれていたこと、右作業においても、ゴム糊を塗ったガス膜を右乾燥機に通すこと、いずれの作業場にも乾燥機が二台設置されていたことは、当事者間に争いがない。

(二)  〈証拠〉を総合すると、次の各事実が認められ、その認定を覆すに足る証拠はない。

(1) 原告は、昭和四〇年六月三日被告会社に作業員として採用され、当初の約四年六か月間は履物課に配属され、履物材料の裁断及び製品の仕上げ包装の作業に従事したが、昭和四五年から昭和四八年四月までの間ガス膜課に配属され、その間、一日の作業時間のうち約四時間はガスメーター用膜(「ガス膜」)の切り離し作業(「本件ガス膜切り離し作業」)に、約三時間は本件ガス膜糊塗り作業にそれぞれ従事していた。

(2) 本件ガス膜切り離し作業は、別紙図面Aに示すとおりで、テトロン布を芯にしてその上下面にゴム引した幅約一メートル・長さ約二〇メートルのガス膜を赤外線乾燥機を通して乾燥させ、右乾燥機から約一メートル離れた位置で、右乾燥機から送り出されてくる右ガス膜を一五センチメートルないし三〇センチメートル角の切れ目に合わせて、一枚ずつ手で切り離す作業であった。右切り離される前のガス膜は、長さ約二メートル毎に約二センチメートル幅の接合部分があり、右接合部分は、成分比がゴム分一五パーセント・有機溶剤であるトルエン63.75パーセント・同じくメチルエチルケトン21.25パーセントから成るガス膜用ゴム糊(「本件ガス膜用ゴム糊」)によって接着されていた。右ガス膜は、赤外線乾燥機内で加熱されるため、これから発生する有機溶剤の蒸気が右乾燥機下面にある約一〇センチメートルのすき間等から漏出し、かつ、右乾燥機からは、ガス膜に塗布された本件ガス膜用ゴム糊が半乾きの状態のまま送り出されてくるので、ガス膜自体も有機溶剤の臭気や刺激を発していた。したがって、原告は、本件ガス膜切り離し作業に従事中、右乾燥機とガス膜自体から発する有機溶剤の臭気や刺激の曝露を受けていた。

(3) 本件ガス膜糊塗り作業は、別紙図面Bに示すとおりで、作業者が長さ約三メートル・幅約五〇センチメートルのベルトコンベアの前に座り、左手でガス膜(一枚は一五センチメートルないし三〇センチメートル角)を目の前のベルトコンベア上に三センチメートル間隔に並べたうえ、これに、右手の刷毛で、作業者の手元に置かれた直径約二〇センチメートルの缶(「小出し缶」)内の本件ガス膜用ゴム糊を塗布する作業であり、右ゴム糊の一回の使用量は0.7グラム、一日の使用量は3.5キログラムであった。

右作業においては、ガス膜が作業者の目の前に置かれるため、ガス膜の塗布面と作業者の頭部の距離は約四〇センチメートルないし五〇センチメートルしかなく、小出し缶には蓋がされておらず、また、作業者の後方約一メートルの位置には、本件ガス膜用ゴム糊が入った直径約三〇センチメートル・高さ約四〇センチメートルの元缶三缶が置かれていた。作業者は、一日に五、六回、小出し缶内の本件ガス膜用ゴム糊が空になる毎に、柄杓で元缶から小出し缶に本件ガス膜用ゴム糊を移し替えていた(一回の小出しの量は0.5キログラム)。そのため、元缶は蓋で密閉されることなく、元缶の口の上に蓋が半分程ずらした状態で置かれていた。さらに、作業者の手によって本件ガス膜用ゴム糊を塗布されたガス膜は、ベルトコンベア上のほぼ中央部に設置された長さ約一メートルの赤外線乾燥機内を通されて加熱されるため、右ガス膜から有機溶剤の蒸気が発生し、作業者の位置が右乾燥機から近いことから、作業者は、右乾燥機内から発生する有機溶剤の強い臭気や刺激にも曝露されていた。

原告も、本件ガス膜糊塗り作業に従事中、右ガス膜の塗布面や小出し缶・元缶、さらに右乾燥機内から発する有機溶剤の強い臭気や刺激に曝露されていた。

(4) ガス膜課の前記二つの作業は、当初、面積が約六〇平方メートル(約六メートル×一〇メートル)・高さ約五メートルの広さの作業場において、同時に行われていたが、途中から右各作業は、約二倍ないし三倍の広さの各作業場にそれぞれ分離・移転のうえ、別々に行われるようになった。そしていずれの作業場にも赤外線乾燥機が二台設置され、とりわけ本件ガス膜糊塗り作業においては、右乾燥機で加熱するため、右作業場内の温度が高くなり、冬でも作業者の作業着は半袖で足りるほどであった。しかも、右作業場外から流入する風でガス膜が飛散したり、外部からの埃がガス膜に付着するのを避けるため、冬はほとんど窓を開けず、夏も窓を全部開けることはなかった。このような状況下で、右作業場内は常に高温であり、そのため、右作業場内においては、本件ガス膜用ゴム糊中の有機溶剤の気化が早く、右作業場内には常に有機溶剤の臭気と刺激がたち込めていた。ところが、局所排気装置は、右各作業場を通じ、本件ガス膜切り離し作業の作業場に設置された赤外線乾燥機の上部に換気扇が設けられていただけであり、しかも、右換気扇も十分に作動せず、各作業場の換気はいずれも極めて悪かった。

原告は、このような作業環境内で本件ガス膜切り離し作業及びガス膜糊塗り作業に従事していたから、同人の周辺には常時有機溶剤の臭気や刺激が充満していた。

2  自動車チューブ課における作業について

(一)  原告が、昭和四八年四月から昭和五二年一二月まで被告会社自動車チューブ課に配属され、本件チューブ糊塗り作業に従事したこと、本件チューブ糊塗り作業は、作業者の前のベルトコンベア上を流れるチューブに、作業者の左上前方に設置されたゴム糊噴射装置により、本件チューブ用ゴム糊を吹き付ける作業であること、作業者の前に遮蔽板が置かれていたこと、作業者は、右作業において、ゴム糊噴射装置により既に糊付けの済んだチューブがベルトコンベア上に乗って流れてくるのを左手で取り上げ、その後に、右手で糊付け前のチューブをベルトコンベア上にのせていくこと、本件チューブ糊塗り作業に従事する作業者が常に前傾姿勢であること、作業者は、一日に約二〇分程度、ゴム糊を溜めておくタンクに家庭用柄杓でゴム糊を移す作業をしていたこと、チューブ糊塗り作業の作業場が、はじめの一年間比較的天井の高いところであったことは、当事者間に争いがない。

(二)  右(一)の事実に、〈証拠〉を総合すれば次の各事実が認められる。

(1) 原告は、昭和四八年四月三日から昭和五二年一二月末までの約四年九か月間、被告会社自動車チューブ課に配属され、自動車用タイヤのチューブバルブの糊塗り作業(「本件チューブ糊塗り作業」)に従事した。作業時間は、チューブ糊塗り作業が一日平均六時間二〇分、その外に、バルブ運搬、櫛板運搬等の作業が一時間あった。

(2) 本件チューブ糊塗り作業は、別紙図面Cに示すとおりで、椅子に座った作業者の前のベルトコンベア上を流れる自動車用タイヤのチューブバルブ(以下「チューブ」という。)に、作業者の左上前方の位置に設置されたゴム糊噴射装置により、成分比がゴム分一六パーセント・有機溶剤であるノルマルヘキサン六七パーセント・同じくトルオール一七パーセントから成るチューブバルブ用ゴム糊(「本件チューブ用ゴム糊」)を自動的に吹き付ける作業であり、作業者は、ゴム糊噴射装置により既に糊付けの済んだチューブがベルトコンベア上に乗って左方から流れてくるのを左手で取り上げ、その後に、右手で糊付け前のチューブをベルトコンベア上に乗せていくというものであった。本件チューブ糊塗り作業によって本件チューブ用ゴム糊が吹き付けられるチューブは一日約一万二〇〇〇個、一回当りの右ゴム糊使用量は約2.5グラム、従って一日の右ゴム糊使用量は三〇キログラムであった。

(3) 右作業においては、作業者が常に前傾姿勢で作業をするため、ゴム糊噴射装置と作業者の作業位置との距離は、約五〇センチメートルないし六〇センチメートルであり、作業者とゴム糊噴射装置との間には、左右のベルトコンベアを跨ぐ形で亜鉛引き鉄板製の遮蔽板が設置されていた。しかし、作業者の左手上方に設置されたゴム糊噴射装置からは、右下方に向け、前述のとおり毎日三〇キログラムの本件チューブ用ゴム糊が圧縮ポンプで圧縮された空気とともに噴射されるため、本件チューブ用ゴム糊の飛沫が、右噴射される空気の向き次第によって右遮蔽板を越え、直接作業者の顔面にかかってくることがあった。しかして、右チューブ用ゴム糊を吹き付けられた後のチューブは、引き続きベルトコンベア上に設置された赤外線乾燥機内を通されるが、その際加熱されるため、前記ガス膜課における作業と同様に、本件チューブ用ゴム糊中の有機溶剤の蒸気が発生し、作業者の周辺には常時有機溶剤の臭気と刺激が立ち込めていた。そればかりでなく、本件チューブ用ゴム糊がベルトコンベア上を流れるチューブの位置よりもかなり上方の離れた位置にあるゴム糊噴射装置から吹き付けられるため、ベルトコンベア上には、飛散した本件チューブ用ゴム糊が堆積していた。さらに、作業者は、一日に約二〇分間右ゴム糊噴射装置に供給する本件チューブ用ゴム糊を溜めておくタンクに、家庭用柄杓で右ゴム糊を移す作業をも行っていた。

原告は、このような作業環境内で本件チューブ糊塗り作業に従事していたから、同人は、一日中本件チューブ用ゴム糊に含有される高濃度の有機溶剤に曝露されていた。

(4) 一方、チューブ糊塗り作業は、当初の約一年間は比較的天井の高い作業場で行われていたが、その後は面積が約六四平方メートル(約八メートル×八メートル)・高さ約三メートルの狭い作業場に移り、しかも、右作業場内には局所排気装置は一切設けられておらず、いくつかの窓と換気扇が三か所に取り付けられているだけであったが、窓はほとんど閉められたままであり、換気扇も全く用をなさなかった。

(三)  右認定に反する〈証拠〉は、前掲各証拠と対比してにわかに信用することができず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

なお、右認定に反する被告会社の主張も、当裁判所の採用するところでない。蓋し、被告会社の右主張を裏付けるに足りる証拠は証人積木圭樹の証言の一部以外にないところ、右証人の右証言部分が信用できないことは右説示のとおりだからである。

3  被告会社における保護具の備え付け・安全教育等について

原告本人尋問の結果(第一回)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の各事実が認められる。

原告が従事した各作業場では、原告を含む従業員が着用する防毒マスク・保護手袋の備え付けが完全でなく、しかも、被告会社において、原告ら従業員に対し、右保護具を着用して作業に従事するよう指導教育をしたことがなかったし、有機溶剤に関する注意事項等の掲示もなく、この点に関する満足な安全教育の実施もなかった。そのため、原告ら従業員は、右保護具を着用せず本件作業に従事していた。

4(一)  右認定各事実を総合すると、原告は、昭和四五年から昭和五二年一二月までの約七年間にわたり、有機溶剤の高度汚染下にあった被告会社の本件各作業場内で就労し、その間有機溶剤の曝露を受けたというべきである。

(二)(1)  もっとも、〈証拠〉によると、被告会社が、昭和五一年及び昭和五二年に実施したチューブ糊塗り作業の作業場における環境測定の結果は、昭和五一年一月二一日及び同月二二日実施分がトルエン五〇PPM、キシレン八〇PPM、メチルイソプチルケトン一〇〇PPM、昭和五二年六月一四日及び同月二二日実施分がトルエン五〇PPM、キシレン三〇PPM、メチルイソプチルケトン八〇PPMであり(ただし、測定点数はいずれも一)、成立に争いのない〈証拠〉中の一部によると、有機溶剤であるトルエン、キシレン、メチルイソプチルケトンの許容濃度(日本産業衛生学会の基準による)は、いずれも一〇〇PPMであって、単一の有機溶剤に限ってみる限りはいずれも許容濃度の範囲内の数値を示していることが認められる。

(2) しかしながら、〈証拠〉を総合すると、(1)右環境測定は、定点測定であるにもかかわらず、測定点の位置や作業場の大きさがなんら明らかにされていないこと、(2)また、チューブ糊塗り作業に従事する作業者は、前記認定のとおり、有機溶剤の発生場所において作業をしているのであるから、当該作業者が曝露された濃度を正確に調べるためには、個人サンプラーを用い、単位作業毎に作業位置の気中濃度を測定して、曝露時間との関係から平均曝露濃度を測定する必要があるところ、被告会社が実施した前記測定方法では、実際に当該作業者が曝露された有機溶剤の濃度とは全くかけ離れた結果となること、(3)さらに、本件チューブ糊塗り作業のように、相加作用を有するいくつかの有機溶剤が混在する場合の曝露評価に関しては、ACGIH(Amer-ican Conference of Governmental Industrial Hygienists)は、C1/T1+C2/T2…………+Cn/Tn(Tが各有機溶剤の許容濃度、Cがそれぞれの気中濃度)の算式の和の一が許容限界に相当するという判定(なお、右ACGIHの定める評価基準と前記日本産業衛生学会の定めるそれとの間には、単一な有機溶剤に関する限り、優劣を決することはできない。しかしながら、本件のように相加作用を有するいくつかの有機溶剤が混在する場合の評価基準については、日本産業衛生学会のそれは必ずしも明確でない。)をしており、被告会社が実施した前記環境測定の結果を右算式に当てはめると、右算式の和は、昭和五一年が二・三、昭和五二年が一・六となることが認められ、右認定各事実に照らすと、原告が本件チューブ糊塗り作業に従事中であった昭和五一年及び昭和五二年当時、同人において実際に曝露した有機溶剤の濃度が被告会社が実施した前記環境測定の結果と同一であったとは認め得ないというべきである。

よって、〈証拠〉及び右各証拠に基づく右4(二)(1)の認定各事実も、未だ右4(一)の認定説示を覆えすに至らない。

なお、右認定説示に反する被告会社の主張も、当裁判所の採用するところでない。蓋し、被告会社の右主張を裏付けるに足りる証拠は〈証拠〉しかないところ、右各証拠が採用できないことは右認定説示のとおりだからである。

三原告の有機溶剤中毒罹患関係

1  有機溶剤中毒一般について

(一)  原告が従事した本件各作業場内で使用されていたゴム糊に含有される有機溶剤が、トルエン、メチルエチルケトン、ノルマルヘキサン、トルオール等であること、作業者が右有機溶剤に長時間曝露されることにより、同人の中枢神経系、末梢神経系等に障害をもたらすことは、当事者間に争いがない。

(二)  〈証拠〉を総合すると、次の各事実が認められ、その認定を覆すに足る証拠はない。

(1) 有機溶剤の特徴は、脂溶性にあり、これが人体内に吸収された場合には人間の神経が脂肪でできていることもあって、神経系に蓄積されやすく、その結果、同人の神経に障害を発生しやすい。また、有機溶剤の体内への侵入は、経気道侵入のみならず、経皮侵入(この場合、蒸気曝露のほか、液体との接触による体内吸収があり得る。)も考えられ、被侵入者の血液を通じて同人の脳や神経部分を侵すことがある。

(2) 有機溶剤による中毒の程度については、日常の反復作業における作業者の曝露濃度と、曝露時間及び期間とが大きく関係し、それと同時に、作業場の物理的な環境条件あるいは作業方法・作業内容等の作業条件が有機溶剤曝露の影響に関係することも多く、特に、高温環境下での作業では有機溶剤曝露の影響を強く受けやすく、また、作業者の作業姿勢、作業速度が関係して有機溶剤曝露の程度に個人差を認めることが多い。

一方、右中毒の程度は、曝露を受ける個体によっても大きな差異が認められ、特に女性の場合は、男性に比して皮下脂肪が多いので、有機溶剤の特徴である前記脂溶性から、その脂肪に、したがって、その体内に蓄積されやすく、男性よりも障害の程度が大きくなる傾向にある。

(3) 有機溶剤の身体への影響は、すべての溶剤について十分研究がなされているとはいい難いが、ノルマルヘキサンについては、他の有機溶剤に比べて解明が進み、経気道吸収だけでなく、経皮吸収によっても神経繊維に直接作用し、多発性神経炎を起こしやすいことが報告されており、したがって、ノルマルヘキサンの曝露を受けた作業者が、これにより多発性神経炎様の症状を起こすことは十分に考えられる。

(4) 次に、有機溶剤の継続曝露によって起こる慢性自覚症状についてみると、有機溶剤取扱い作業に継続的に従事したときに発現する健康への影響は、有機溶剤の種類によって異なり、中枢神経系、自律神経系、末梢神経系、造血系、肝、腎臓その他の障害と多岐に亘っているが、有機溶剤が前記のとおり脂溶性であることから、程度の差こそあれ、中枢神経系、自律神経系に障害をもたらし、頭痛、めまい、視力低下などの中枢神経障害のほかに不安、短気、不眠、無気力などの精神神経症状が、自律神経障害としては、立ちくらみ、発汗、冷え症、悪心、心窩部痛、食欲不振等の自覚症状が、それぞれ発現する。さらに、混合有機溶剤曝露の場合の慢性自覚症状としては、手や顔などの皮ふ障害、四肢知覚異常、嘔気、全身倦怠、協同運動失調等が報告されている。

2  原告の本件症状とその治療経過及び右症状が本件有機溶剤中毒症状と診断認定されるまでの経緯について

(一)  原告が、昭和四八年四月から被告会社自動車チューブ課に配属されたこと、本件チューブ糊塗り作業自体は、同会社ガス膜課における作業と比較して軽作業であったこと、原告がその主張する医療機関の一部において診療を受けたこと、原告が、本件疾病に関し、昭和五六年二月高砂労働基準監督署長に対し、労災保険給付の請求をしたところ、同監督署長は、昭和五八年三月不支給決定をなしたが、原告がこれを不服として審査請求をなしたところ、兵庫労働者災害補償保険審査官が、昭和六一年一一月七日付で本件疾病は被告の業務に起因する有機溶剤中毒によるものである旨認定し、前記不支給決定を取消す旨の決定をしたことは、当事者間に争いがなく、原告が昭和四五年以降被告会社において従事した各作業内容、各作業場の作業環境、作業状況、原告と本件有機溶剤とのかかわり状況等は、前記認定のとおりである。

(二)  右(一)の当事者間に争いのない事実及び右認定各事実に、〈証拠〉を総合すると、次の各事実が認められる。

(1) 原告は、昭和四六年ころから、吐き気、頭痛、眼の刺激痛、皮ふの異和感、全身の皮ふの異常乾燥(全身の皮ふが白い粉を吹いたようにカサカサになる。)などの症状に悩まされるようになり、その後、さらに咳、のどの痛み、食欲不振、視力低下、耳閉感、ふらつき等の症状も加わって、ますます症状が悪化し、被告会社の健康診断医に右症状を訴えたが、とりあってもらえなかった。原告は、このように各症状が悪化拡大するに及びたまりかねて被告会社に対し軽作業への配置換えを希望したところ、昭和四八年四月自動車チューブ課に配転された。原告が右自動車チューブ課に移った後も、同人の右各症状は改善されないばかりか、ますます悪化の一途をたどり、手足のふるえ、脱力感、頭髪の抜け等に加え、声が出にくい、めまい等の症状も発現するようになった。

(2) そこで、原告は、昭和五一年五月以降別紙受診歴一覧表記載のとおり、各医療機関の診療を受けたが、その詳細は次のとおりである。

(イ) 昭和五一年五月一日、兵庫県明石市所在国立明石病院(以下「明石病院」という。)で受診し、同病院耳鼻科において「声帯ポリープ、慢性鼻咽喉炎」、同病院内科において「肥満症、肝炎の疑」とそれぞれ診断された。

(ロ) 昭和五二年四月一三日、頸椎の回旋の固定化、左手のしびれ感を訴えて、再び明石病院で受診、「変性性頸椎症」と診断され、約四〇日間通院加療。

(ハ) 昭和五三年一月六日、腰痛、項部痛、肩こり、上肢の脱力感、倦怠感を訴えて、岡山県倉敷市所在倉敷中央病院で受診、「腰椎及び頸椎軟骨症」と診断され、休業し、入院加療。

(ニ) 同年二月一五日、倉敷中央病院での治療を終診し、同日、強度のよくうつ状態(不安、不眠、焦燥を伴う愁訴)及び被害念慮を有する身体的不調(胃部不快感、食欲不振、心悸亢進、胸内苦悶)を訴えて、同市内所在森下内科で受診、「神経性胃炎、心脱神経症、よくうつ状態、合併症として腎盂膀胱炎、椎間板ヘルニア」と診断され、休業のうえ、同年三月七日から昭和五四年五月九日まで入院加療を継続し、その結果症病全治により出勤就業可能と診断された。

原告は、その後昭和五四年五月一四日、職場復帰した。

(3)(イ) 原告は、右職場復帰後、有機溶剤とは関係のないチューブ検査業務に従事したが、就労後約二〇日程経過して、咳、食欲不振、頭部・首部・腰部などに痛みが発現し、その症状が次第に悪化したため、昭和五四年八月四日、両肩の疼痛、右手のしびれ感、運動時痛及び右膝の疼痛、視力障害、嘔気、めまい等を訴えて、明石病院で受診したところ、「変形性頸椎症(ミエロパチーの疑い)、変形性膝関節症、多発性神経炎の疑い、胃炎、冠不全、尿路感染症、頸性頭痛」と診断され、休業のうえ、同月一四日から昭和五五年五月六日まで入院加療した。

(ロ) ところで、原告は、右入院期間中の昭和五五年四月二三日、神戸大学医学部附属病院(以下「神戸大病院」という。)で受診したところ、同病院における精密検査等による診断の結果、「末梢神経障害」と診断されるに至り、明石病院を退院と同時に神戸大病院に入院し(入院は同年六月二七日まで)、その後通院加療を続けていた。原告は、さらに、昭和五五年九月一日、神戸市長田区所在神戸医療生活協同組合神戸協同病院(以下「神戸協同病院」という。)で受診し、頭がしびれる、手足がチクチク痛いしびれ方、左前胸部より痛くなって上に上がってくる、咳が夜中に出る、手関節をねじる動作がしにくい等の主訴及び自覚症状のもとに、種々の検査、内科及び整形外科等総合的診察を受け、その結果、「傷病名は有機溶剤中毒。末梢神経障害あり。他に原因を認めない。業務との関連性については有機溶剤中毒と考えられる。」と診断された。

(4) 原告は、昭和五六年七月ころ、神戸市兵庫区所在兵庫医療生活協同組合神戸診療所(以下「神戸診療所」という。)で受診し、以来、神戸診療所において、伊丹仁朗及び片木健一両医師(有機溶剤中毒を含む職業病等の専門的診察治療に当り、特に有機溶剤中毒の診察治療については、一般の臨床医に比して臨床経験及び知識とも豊富である。)の診察・治療を受け、現在に至っている。しかして、右両医師は、(イ)原告の右初診時の自覚症状として、全身とりわけ下肢における神経痛様の疼痛、下肢けいれん、四肢のしびれ、悪寒、戦りつ発作、記憶力低下、胸部苦悶発作、眼球運動痛、耳閉感、睡眠障害、車酔い感、歩行障害、視力低下等の症状が認められたほか、他覚所見として、中毒性の末梢神経障害を強く印象づける口周囲の痛触覚障害、上下肢の手袋靴下状の痛触覚障害の存在が確認されたこと、(ロ)原告に対する詳細な問診を行った結果、原告が前記認定のとおりの作業環境のもとで、しかも、有機溶剤の発生源に極めて近い位置において作業に従事し、原告の呼吸器官や鼻は、常に有機溶剤の強い臭気・刺激にさらされていた事実が判明したこと、(ハ)原告にはほとんど糖尿病の所見が認められないこと、これらに各種検査結果(その中には、原告が京都南病院に入院して得られたデータも含まれている。)を総合し、原告は、被告会社の業務に起因して、慢性有機溶剤中毒に罹患したものであり、その発症時期は遅くとも昭和五二年ころであると判断した。

(5) なお、有機溶剤取扱者は、他覚的・客観的な影響が発現する以前に、多彩な自覚症状が見られるのが通例で、時には、一見ヒステリーとか精神病を思わせるような症状を示す場合もあり、有機溶剤中毒の診断に当っては、自覚症状が重要な指標となっており、当該作業者の作業環境が有機溶剤による健康障害を起こすに十分なだけ劣悪であり、一般疾病の存在を否定できる場合に、自覚症状のみによって有機溶剤中毒の診断をしてもさしつかえないと考えられている。

(6) 原告は、本件疾病を業務に起因して生じた疾病(有機溶剤中毒)であると主張し、昭和五六年二月二七日、高砂労働基準監督署長に対し、労災保険給付を請求したところ、同監督署長は、昭和五八年三月三一日付で、原告の本件疾病は労働基準法施行規則三五条別表一に掲げられる疾病(業務上の疾病)に該当しないと認定し、不支給決定をした。原告は右決定を不服として審査請求をなしたところ、兵庫労働者災害補償保険審査官は、原告が従事した本件作業内容、同人のその間における本件有機溶剤の曝露状況、同人の本件疾病の発現時期、同人の右疾病の治療状況、特に各治療機関の各診断内容、右不支給決定の理由等を詳細に検討したうえ、昭和六一年一一月七日付で、原告の疾病が被告の業務に起因する有機溶剤中毒によるものである旨認定し、右不支給決定を取消す旨の決定をした。

(三)(1)  〈証拠判断略〉

(2)(イ) 〈証拠〉は、原告の被告会社におけるチューブ押出有機溶剤等健康診断個人票(昭和四九年三月から昭和五二年九月まで八回にわたって実施された分。なお、右健康診断は、右健康診断個人票の名称から、後記認定の有機溶剤中毒予防規則二九条、三〇条所定の特殊健康診断と認められる。)であるが、右各健康診断個人票の「自他覚症状」欄もしくは「神経系または消化器系障害」欄には、いずれも斜線が引かれ(ただし、昭和五一年四月二三日実施分の神経系又は消化器系障害欄のその他の欄に気管が悪いと記載されている。しかしながら、それに続く昭和五一年九月二四日実施分においては右記載がなされていない。)処置及び注意欄には「健康」と各記載(ただし、昭和五一年三月二六日実施分については赤血球過多月后再検とのみ記載されているが、それに続く同年四月二三日実施分については同じ欄に「健康」と記載されている。)されている。

したがって、右各健康診断個人票の右各記載からすれば、原告は右期間中健康であったかの如くである。

しかしながら、右斜線が引かれた根拠については右各文書自体から明確でなく、右根拠を直接裏付ける他の証拠もない。のみならず、右健康診断個人票中昭和五〇年三月一四日から昭和五二年九月二二日までに実施された分(七回)については、右個人票中に「主として取扱った有機溶剤の名称」を記入する欄があるにもかかわらず右欄には何も記入されていない。原告が右期間中就労した本件作業内容に照らし、しかも右個人票がチューブ押出有機溶剤等健康診断と銘打っている点及び後記認定にかかる右健康診断において取上げるべき参考資料に鑑みると、右「主として取扱った有機溶剤の名称」欄の記載内容は右健康診断にとって重要な役割を持つと解される。それにもかかわらず、右欄が空白のままであることは、右個人票の記載がずさんであるとのそしりを免れず、ひいては、右各実施された右各健康診断の実施方法その内容に対しても疑問を抱かざるを得ない。

加えて、有機溶剤中毒に関する健康診断に当っては自覚症状が重要な指標となっていることは前記認定のとおりであるところ、〈証拠〉を総合すると、右診断に当り、対象者に対する自覚症状や他覚症状の聞き取りは十分に訓練を受けた医師や保健婦が直接これを行うのが理想であるが、健康診断のように多数の作業者を相手に長時間かけて問診するのは不可能なので、先ず問診票を用いてアンケート調査を行い、健康診断時には、これを参考にしながら補足的に直接問診するのも一つの方法であること、右問診票には平易な言葉で質問を記載し、その質問数も必要にして十分なだけ用意し、回答も肯否いずれかを簡単に選択できるようにするのが望ましいこと、右作業者を直接健康診断をするに当っては、右問診票において肯定の回答のあった自覚症状についてさらにその内容や現れ方を詳細に問いただすことが極めて重要であること、そして、右事項について詳しく質問した後に、それらの症状を総合して神経障害の有無、もし障害があると考えるならばその部位程度についておおよその見当をつけておく必要があること、勿論この際、使用されている有機溶剤の種類、右溶剤使用開始時期、曝露状況等が重要な参考資料となること、原告が被告会社の右健康診断を受けた際、同人は、同会社の上司から右個人票を手渡され右個人票を持って健康診断に行くべく申向けられただけで、右個人票に設置された前記「自他覚症状」欄もしくは「神経系または消化器障害」欄に記入する必要や記入方法については何ら指示を受けなかったこと、かえって、原告が右欄に自ら記入するのではないかと尋ねたところ、右欄は本人が記入する欄と違う旨応答されたこと、原告が同人を直接健康診断をした医師に前記認定のとおり当時の症状を訴えたところ、同医師が、同人において後日原告の訴にかかる右症状を記入する旨回答したこと、原告が次の健康診断の際右個人票の前回の右欄に斜線が引かれているのを見て不審に思いこの点を質問したところ、それは別にチェックしていると回答されたことが認められ、右認定各事実に照らしても、右各健康診断個人票の前記各記載すなわち、右各欄の斜線部分及び「健康」部分は、にわかに信用することができない。

(ロ) 〈証拠〉は、神戸大学医学部第三内科助手陣内研二作成の弁護士村松文二郎(被告会社訴訟代理人)宛回答書であるところ、右回答書には、右陣内研二が原告を診察し末梢神経障害と診断したが、有機溶剤との関連は不明であった、大西晃生医師の神経生検所見報告書中の診断が有機溶剤による毒素性神経痛となっているのは、神経生検標本の検索依頼をした時の同人らの疑い病名であり決して大西医師の診断名でない旨記載されている。

したがって、右回答書の右記載は、前記認定にかかる神戸診療所の医師伊丹仁朗及び同片木健一の診断〈証拠〉と対立し、右両医師がした本件診断の信ぴょう性を減殺するかの如くである。

しかしながら、有機溶剤中毒の診断に当って自覚症状が重要な指標となっていること、それ故に右診察に当っては必要十分な問診を行うことを要すること、しかも、右問診においては訴えられた自覚症状を詳細に質問する必要があり、その際、使用された有機溶剤の種類、右溶剤使用開始時期、曝露状況等が重要な参考資料となること等については前記認定のとおりであるところ、右回答書自体では、陣内研二及び大西晃生両医師が右認定との関連において如何なる診察方法を採ったか不明であるし、また、原告の本件症状を末梢神経障害と診断しながらも有機溶剤との関連を不明とした、その根拠も不明である。しかして、右不明点を明確にする証拠はない。加えて、〈証拠〉によれば神経系に対する毒性はほとんどすべての有機溶剤にみられる毒性であるから、医師が有機溶剤中毒の有無を見分けるためには、同医師において特に有機溶剤の神経毒性と神経学的診断技術に関して十分な知識と経験を積んでおく必要があることが認められるところ、右陣内研二、同大西晃生両医師が右認定との関連において有機溶剤中毒につき如何なる臨床経験及び知識を有していたかの点については、右回答書自体から不明であり、右不明点を明確にする証拠もない。さらに、〈証拠〉によれば、神経の生体検査においてはこれにより有機溶剤中毒と断定できる場合が極めて少く、したがって、右検査が有機溶剤中毒の診断に役立たないことが多いこと、右検査結果が右のとおりである故、右検査を実施しても有機溶剤中毒と断定できない旨の結論になる場合が多いことが認められる。

右認定各事実に照らす時、右回答書の右記載内容も、伊丹仁朗及び片木健一両医師の前記診断と対立し右両医師がした本件診断の信ぴょう性を減殺する程の証明力を有するとは認め得ない。

(ハ) 〈証拠〉は、医師森下喬之作成の被告会社労務課尾藤俊夫宛原告の病名、検査結果、治療経過等を記載した書面であるが、右書面の記載内容は、病名神経性胃炎、心脱神経症、腎盂膀胱炎、椎間板ヘルニア、よくうつ状態。検査結果血液、レントゲン各検査正常あるいは異常なし。治療経過漸次経過良好というにある。

しかして、原告が昭和五三年二月一五日森下内科で診察を受け同年三月七日から昭和五四年五月九日まで右病院へ入院したことは前記認定のとおりであるから、右書面右記載によれば、原告は右病院で医師森下喬之の診察治療を受けている間、有機溶剤中毒に罹患しておらず、しかも、その症状は漸次良好になって行った。すなわち前記認定の医師伊丹仁朗及び同片木健一の前記診断と対立し右両医師がした本件診断の信ぴょう性を減殺するかの如くである。

しかしながら、前記医師陣内研二作成の回答書〈証拠〉の証明力について説示したところは、医師森下喬之作成の右書面についてもすべて妥当する。

よって、右説示に照らす時、右書面の右記載内容も、前記認定にかかる医師伊丹仁朗及び同片木健一の前記診断と対立し右両医師がした本件診断の信ぴょう性を減殺する程の証明力を有するとは認め得ない。

3  原告の本件有機溶剤中毒罹患の存否について

(一)  ところで、訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。(最高裁昭和五〇年一〇月二四日第二小法廷判決民集第二九巻第九号一四一七頁参照。)

(二) これを本件についてみると、前記二、三1、2において認定した、原告が被告会社において従事した本件作業内容と有機溶剤に対する曝露状況、有機溶剤中毒一般、原告の本件症状とその治療経過及び右症状が本件有機溶剤中毒症状と診断認定されるまでの経緯等の全事実を総合すると、原告の本件症状と同人が被告会社において従事した本件各作業中の有機溶剤曝露との間に、右説示にかかる相当因果関係の存在を肯認し得る高度の蓋然性があり、したがって、原告は、本件有機溶剤曝露によりこれを吸収し本件有機溶剤中毒に罹患したと認めるのが相当である。

(三) 原告の本件治療経過中同人において昭和五五年九月一日以前、すなわち神戸協同病院における受診以前に診察治療を受けた各医療機関が同人の本件症状を本件有機溶剤中毒と診断しなかったことは前記三2(二)(2)において認定したとおりである。

しかしながら、右各医療機関の診断治療には、前記医師陣内研二作成の回答書〈証拠〉、同医師森下喬之作成の書面〈証拠〉について認定説示したところがそのまま妥当するから、右各医療機関の診断治療の存在も、未だ右(二)の認定説示を左右するに至らない。

よって、被告会社のこの点に関する主張は、理由がなく採用できない。

四被告会社の責任原因

1(一)  原告が前記認定にかかる本件各作業に従事中同人が被告会社の従業員であったことは、当事者間に争いがない。

(二)  ところで、一般の私法上の雇用契約においては、使用者は労働者が給付する労務に関し指揮・監督の権能を有しており、右権能に基づき、所定の設備、器具、機械、作業場等の物的設備を指定したうえ、労働者をして特定の労務を給付させるものであるから、使用者としては、指揮・監督権能に付随する信義則上の義務として、労働者の労務給付過程において、物的設備から生じる危険が労働者の生命、身体、健康等に危害を及ぼさないようにこれを整備し、労働者の安全を配慮すべきいわゆる安全配慮義務を負担していると解すべきである。

(三)  よって、被告会社も、原告が右各作業に従事中同人に対し右説示にかかる安全配慮義務を負っていたというべきである。

2 次いで、被告会社の原告に対する本件具体的安全配慮義務について判断する。

(一)(1) 被告会社は、原告の使用者として労働安全衛生法、労働安全衛生規則等に定める義務を負っているが、前記認定にかかる同会社の本件作業内容から、同会社が有機溶剤中毒予防規則に定める義務をも負っている(有機規則一条一項)というべきである。

(2)  右各規定は、いわゆる行政的な取締規定であって、右各規定の定める義務は、使用者の国に対する公法上の義務と解される。

しかしながら、右各規定の究極的目的は労働者の安全と健康の確保にある(労安法一条参照。)と解するのが相当であるから、その規定する内容は、使用者の労働者に対する私法上の安全配慮義務の内容ともなり、その規準になると解するのが相当である。

(3)  右見地から、本件において、被告会社は原告に対し右各規定の内容に則し次の具体的安全配慮義務を負っていたと認めるのが相当である。

(イ)  原告の従事する本件各作業場内の有機溶剤曝露を最小限にするため、右作業場に所定の規模・機能を持った局所排気装置を設置すべきであった。(労安法二二条、二三条。有機規則五条、一四条ないし一八条)

(ロ)  呼吸用保護具(防毒マスク)、保護手袋等適切な保護具を備えるべきであった。(労安規則五九三条、五九四条。有機規則三二条ないし三三条)

(ハ)  有機溶剤の特性・毒性・有機溶剤中毒の予防に関し、安全衛生教育を実施すべきであった。(労安法五九条、労安規則三五条)

(ニ)  適切な特殊健康診断を実施すべきであった。(有機規則二九条、三〇条)

(ホ)  必要な作業環境測定を行い、その結果を記録しておくべきであった。(労安法六五条、同法施行令二一条、有機規則二八条)

(ヘ)  有機溶剤の人体に及ぼす作用、その取扱い上の注意事項、これによる中毒が発生したときの応急処置等を作業中の労働者が容易に知ることができるよう、見やすい場所に掲示すべきであった。(有機規則二四条、二五条)

3(一) 原告が従事していた本件各作業場における局所排気装置の設置の有無・その規模・機能、同保護具の設備状況、有機溶剤の特性・毒性・有機溶剤中毒の予防に関する安全衛生教育の有無・その実態、被告会社が行った特殊健康診断の方法・内容、被告会社が行った作業環境測定の時期、その方法と内容、有機溶剤に関する所定事項の掲示の有無等については、前記二1ないし3において認定したとおりである。

(二)  右認定各事実を総合すると、被告会社は、原告が本件各作業に従事中同人に対し負っていた具体的安全配慮義務に違反し、同人をして本件有機溶剤中毒に罹患せしめたというほかはない。

よって、被告会社には、民法四一五条に則り、原告に対し、同人の被った後記損害を賠償する責任がある。

五原告の本件損害

1  休業損害 金六九九万三八三一円

(一) 〈証拠〉を総合すると、次の各事実が認められ、その認定を覆えすに足りる証拠はない。

(1) 原告は、本件疾病のため、昭和五四年八月四日から休業して現在に至っているところ、その間、別紙受診歴一覧表記載のとおり、入院治療は合計七六九日、通院期間は、神戸大病院退院後の通院状況をとってみても、昭和五五年七月一二日から平成元年一二月一五日まで三四四四日間(うち実治療日数は合計一四九五日を下らない。)に及んでいる。

(2) 労災保険の原告に対する休業補償給付の「給付基礎日額」は金四六一七円である。

(3) 一方、原告は、本件疾病につき労災保険の休業補償給付を受けているところ、休業補償給付の日額は「給付基礎日額」の六〇パーセント相当額とされている。(労働者災害補償保険法一四条)

(二)(1)  右認定説示に基づき、原告の本件休業損害の算定に当っては、右「給付基礎日額」金四六一七円を原告の賃金日額とみなし、右金額に前記昭和五四年八月四日から平成元年一二月一五日までの休業日数合計三七八七日を乗じた金額をもって右休業損害と認めるのが相当である。しかして、右算式によると、右休業損害は、金一七四八万四五七九円となる。

4617円×3787=1748万4579円

(2) 右金一七四八万四五七九円の六〇パーセント相当分が原告が受給している労災保険休業補償給付により補填されているとみなされる。そこで、右金一七四八万四五七九円から右填補相当額を控除すると、その残額は金六九九万三八三一円となる。

1748万4579円×(1−0.6)=699万3831円

2  慰謝料 金八〇〇万円

〈証拠〉を総合すると、(1)原告の本件症状は未だ完治せず、現在も極めて強度のしびれ、疼痛等の自覚症状があり、他覚所見としても末梢神経障害、脳波異常、口周囲の知覚鈍麻、運動失調等が認められること、(2)そして、原告は、右症状のため、日常生活において、(イ)杖を使ってしか歩行できないし、杖を使っても休憩せずに五〇メートル歩行するのは無理である、(ロ)衣服の着脱に時間を要する、(ハ)箸を使ったり茶碗を持ったりするのにも、時たま支障がある、(ニ)視力が落ち夕暮れになると一〜二メートル先が見えず、物にぶつかることがある、(ホ)温度の感覚が鈍くなっており、火を使ったり、湯を触るのに恐怖を覚える等の多大な支障があって、これに苦しみ悩んでいること、(3)また、原告は、かかる日常生活上の支障のため、家族等にも多大な負担をかけ、それが原告の精神的な重荷となっていることが認められ、右認定各事実に、前記認定の入通院期間その他本件記録に現われた諸般の事情を勘酌すると、原告の本件慰謝料は、金八〇〇万円と認めるのが相当である。

3  弁護士費用 金一五〇万円

本件事案の難易度、請求認容額及び諸般の事情を勘酌すると、被告会社の本件債務不履行と相当因果関係に立つ損害としての弁護士費用は、金一五〇万円と認めるのが相当である。

4  右認定説示に基づくと、原告の本件損害合計額は、金一六四九万三八三一円となる。

六被告会社の抗弁(消滅時効)

1 被告会社の右抗弁は、要するに、原告の本件安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求は、日々新たに発生する被告会社の安全配慮義務違反につき、それぞれの時効の起算点(債務の履行を請求しうる時)から別個に消滅時効が進行するとの見解を前提として、右損害賠償請求権のうち昭和四五年二月一日から昭和五二年七月一四日まで発生した損害については、本訴提起日である昭和六二年七月一四日より一〇年以上前の損害であるから、かかる部分の損害賠償請求権は時効により消滅しているというにある。

2(一) しかしながら、労働契約上の安全配慮義務の抽象的内容については前記説示のとおりであるところ、その具体的内容は職場の内容、種類、地位、あるいは安全配慮が問題となる具体的状況等によって異なり、これに対応して、安全配慮義務の履行期間も、当然に一律に決せられるべきでなく、これが問題となる具体的状況等によって具体的に定められるべきである。したがって、被用者が、労働契約に基づく職務の履行を遂行するに伴って、生命、身体、健康等に対する侵害の現実的な危険を継続的に受けている場合には、使用者は、右危険に対して業務遂行ごとに新たな安全配慮義務を負うのではなく、被用者がその労働契約上業務遂行の地位にある限り、継続して一個の安全配慮義務を負担し、被用者も使用者の右安全配慮義務の履行義務に対応する安全配慮請求権を有すると解するのが相当である。右観点にしたがえば、使用者の継続的な安全配慮義務の不履行における時効期間は、被用者において使用者に対し右具体的安全配慮義務の履行を請求する余地のなくなった時点、すなわち、被用者が退職した日または当該業務を離脱した日から起算するのが相当である。蓋し、被用者が、特定の業務の遂行に付随して発生する危険に対する安全管理を怠り、被用者の健康被害あるいは損害を進行あるいは累積させたような場合には、使用者の安全配慮義務の不履行が、日々新たに発生するものと解することはできず、全体として一個の安全配慮義務の懈怠として把握すべきであって、被用者は、使用者に対し、前記安全配慮義務の履行義務に対応する安全配慮請求権を、退職した日または当該業務を離脱した日以前において有し、かつ、行使し得ると解するからである。

(二) これを本件についてみるに、被告会社の原告に対する本件安全配慮義務負担が継続的なものであり、同会社が原告に対し継続してその不履行に及んでいたことは、前記認定から明らかであり、それ故、原告の同会社に対する本件損害賠償請求権の消滅時効の起算点も、同人が被告会社を退職した日、または本件有機溶剤を取扱う本件作業から離脱した日から起算するのが相当である。

しかして、原告の本訴提起が昭和六二年七月一四日であることは、本件記録上明らかであるところ、右昭和六二年七月一四日の一〇年前である昭和五二年七月一四日の時点において、原告が被告会社の従業員であったことは前記認定のとおりであるし、右消滅時効の起算点を同人が本件有機溶剤を取扱う作業(最終的作業である同会社自動車チューブ課におけるチューブ糊塗り作業。)を離脱した日としても、同人の右離脱時期が昭和五二年一二月末であることは前記認定のとおりである。したがって、いずれにしても、原告の右訴提起時において、同人の本件損害賠償請求権につきその消滅時効期間が完成していなかったことは明らかである。右認定説示に反する同会社のこの点に関する主張は、当裁判所の採用するところでない。

よって、同会社の抗弁は、すべて理由がない。

七結論

1  以上の全認定説示を総合し、原告は、被告会社に対し、本件損害金一六四九万三八三一円(原告の主張にしたがい本件後遺障害による逸失利益及び平成元年一二月一六日以降の諸損害を除く。)及びこれに対する履行期到来後で、かつ、本訴状送達日の翌日であることが本件記録上明らかな昭和六二年七月二八日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める権利を有するというべきである。

2  よって、原告の本訴請求は、右認定の限度で理由があるから、その範囲内でこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官鳥飼英助 裁判官三浦潤 裁判官畠山新)

別紙〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例